展示を振り返って ―「AIとの創造性の発揮」の観点から
山口達典(IAMAS博士後期課程 在籍)
2018年10月25日。《Edmond de Belamy》と題された絵画がクリスティーズに出品され、432,500ドルの高値で落札された。この作品はフランスを拠点に活動するアーティスト集団「Obvious」により発表されたもので、その年のはじめに彼らが発表したプレスリリースには、「⼈⼯知能がアートを作ることに成功した」との⽂⾔があった。それが正しい表現かは疑義を残すところだが、それから7年以上の年月が経つ。情報科学の営みにおいて、その時間的遷移は人々の驚嘆に埃を被らせるのに充分すぎる。人工知能を使用しただけで「特別な作品」たらしめる時代などは疾うに過ぎ、今やAIは創作の領域に染み入った。AIを創作に使用することに特段の意識もない作家も現れたころだろう。であるならば、現代は、創作にAIを使うべきかではなく、どのように使うべきかを見つめる必要のある時代である。ここではそれを「AIとの創造性の発揮」と言い回し、その観点で本展を振り返りたい。
後藤汰誓《Diffractive Intelligence》でAIは、ヒトとは異なる知性を持つものとして、人間(のためのインターフェイスであるドラムマシン)、粘菌とともに並置されている。それにより後藤は、人間の知性を相対化する。それぞれの種はそれぞれの「世界」をみる。AIと粘菌はそれらの「世界」を認識しうる存在として、無数にある選択肢のうちの二つだ。それは「人間の世界」をみる我々の視力を矯正するレンズであるが、そこに映るのも、おそらくは歪んだ像なのだろう。
宮口哲哉《FAID》では、カエルの歌に介入し、合唱を起こすためにAIが用いられた。宮口はこれを『種を超えた音楽』と表現する。それは、非生物のAIを自律的な種として認識し、人間が行なってきた自然への介入を代替させるパフォーマンスである。そこで生まれるのは人間が愉しむための歌ではなく、「音楽性を持たない」もの同士の鳴きだ。それによりこの作品は、逆説的に音楽性を再考する装置として機能するのである。
田中美羽《都市の調律》では、環境音と田中の主観データを学習したAIモデルが使用され、それが都市の環境音を調律することで彼女自身の「快」の音へと変容させようとする。田中の感覚を0,1へと処理したAIは、スコアとして彼女の主観を現前させている。それは田中自身を「調律」することでもあろう。「生」であったはずの感覚を離散的なものとして掴んだとき、掌にあるのは変容した「田中美羽」である。それを観る我々にも、その現代的構造への是非が問われている。
永田一樹のプロジェクト「ベッドタウン・AI」は、自身が育った場所にAIのためのデータセンターが建設されることに問題意識の起点がある。ネットの仮想空間で蠢くAIは、現実の風景をも変えている。資本主義的な技術革新という潮のただ中を、我々はなす術もなく漂っているのだ。それも、日常的にAIを使用しながら。そういった一種の絶望的な世界を、《ベッドタウン・AI》は永田が感じたままに表れている。それを観る我々が取るべきはそんな永田への共感的態度だろうか。それとも社会に対するアクションか。
本展のキュレーターであり出品者でもある山口の「EXPAND」、「EXPAND Ⅱ」では、自身の創造性を拡張するためにAIは使用される。絵画を学んだ山口がこれまで描かなかった/描けなかった絵を、AIと対話することによって描こうとする。山口が求めるのは自身にはない世界認識であり、起こそうとするのはそれを突きつけられることによる自身の変容である。そのために、存在として絶対的な距離の差異がありつつも対話のできる相手として山口はAIを選択した。その〈他者〉との対話による絵画世界の構築を、山口は「collaboration(協働)」と呼ぶ。
以上の全ての出品作を振り返ると、山口のいう「協働」とは「AIとの創造性の発揮」の仕方がそれぞれで異なっている。後藤はAIを、世界を認識する一主体として認識できる可能性を提示する。宮口も同様にAIを「種」として提示し、我々とは異なる「音楽性」をそこに見出そうとする。この後藤・宮口を山口と比較すると、AIを創作に使用する目的に、共通点と相違点の双方が浮かび上がる。山口が目指すのは自身の変容である。自身の変容というとやや大仰に聞こえるが、例えばChatGPTをはじめとするLLMとの相談、いわゆる「壁打ち」も、自身の変容を試みる行為の一種と捉えられるだろう。一方で後藤や宮口がAIに求めるのは、我々の認識する、あるいは心にある、自然や社会といった「世界」の変容である。すなわち、山口も後藤と宮口も、ともに変容を目指してはいるが、それが向かう対象が自身か「世界」かで異なっているのだ。田中の場合、環境音を調律するという意味では「世界」を変容させているともとれるが、田中の目的はそれによって自身の主観を現前させて受け取ることであり、その音を聴く自身がどうなるかを問うている。つまり、AIを使用する目的としては、山口同様に自身の変容を志向する意味合いが強い。では永田はというと、後藤・宮口と同様に、風景という「世界」が作品に内包されてはいるが、それはAIの登場によって既に変容した「世界」であり、永田自身にAIで「世界」を変容させる意思はない。しかし、AIで自身を変容させることを試みているわけでもない。その点において永田の立場は中庸だ。その理由は、次の観点から考えられる。
例えば後藤は、新たな「世界」の構築のために、それを構成する一要素としてAIを提示する。それは確かに代表的な「知性」を持つと考えられるものの一つであるが、必ずしもAIである必要はない。共に粘菌が置かれていることも、そのことを示している。後藤が目指すのは「知性」に基づいた人間中心主義の解体であり、換言すれば、作品で表したい、あるいは批評したいものは、AIそのもの(単体)ではないのである。永田の場合も確かにAIに対する批評性は含まれるが、彼が露わにするのはそういった技術によって風景が変わることであり、それを急激に促進させる資本主義的な論理である。そのため、作品にAIを使用していながらも、その目的にAIによる変容は関与していないのである。一方で宮口は、カエルの鳴き声を周囲の音から識別しタイミングを予測して鳴き返すモデルを構築しており、AIを使用する必然性がそこにはある。人間という音楽性を持つ種がそれを行えば、人間の音楽性にカエルを組み込むことになりかねないからだ。そこで音楽性のないAIによって導かれる合唱の「音楽性」が批評されるのである。田中の作品も同様に、実現するためにAI技術は必要であり、それによって立ち現れてくるものが批評されている。要するに、宮口・田中のようにAIそのものが作品の対象として批評されているのか、あるいは後藤・永田のように現代的な問題を対象とする中でAIが作品に含まれてきたのかという違いを指摘できるだろう。そうしてみたとき、山口の態度はあやふやなところがある。AIそのものを批評するわけではないが、AIを使用することによる自身の創造性の拡張という試みに、AI自体への批評が全くないとは割り切れない。
ここまでを整理すると、AIを創作に使用する目的が「世界」の変容か/自身の変容か、また、作品の扱う対象は現代的問題か/AIそのものかという二軸が認められる。とはいえ、永田や山口のような中庸的な立場が示すように、それらは連続的なグラデーションであって明確に区別できるわけではない。自身は「世界」に含まれ、AIは現代的な問題に含まれる。すなわち、これは作品の持つ効力の、画角と被写界深度の問題である。
ではなぜ筆者は、つまり山口はこのような分析を行なったのか。それは「AIとの創造性の発揮」の方法の多様さを示すためである。ここ数年の画像生成AIの衝撃波とともに、「AIアート」なる言葉は波に乗ってやってきて、我々の前に漂い浮かんでいる。しかし、本当に芸術制作にAIを使用すればそれは「AIアート」なのだろうか。山口が「協働」と呼ぶ自身の制作方法と、その他の出品者のAIの使用の目的や態度はそれぞれで異なっている。技術の内実は日々更新され、同じ目的意識も持たず、扱う対象も共有しない我々は、本当に一括りにできるのだろうか。
しかし、だからこそ、どのようにAIを使うべきか、すなわち「AIとの創造性の発揮」の方法を探らねばならない。その研究は、創作者にとっては創作にAIを使用する際の、研究者にとってはAIを使用された作品を分析する際の一助になるはずだ。本展ではそのように、AIが創作に関わるなかで発揮される創造性の多様さを示した。それが鑑賞者にとって「AI時代の創造性」に思考を巡らせる契機となれば幸いである。
IAMAS博士後期課程在籍 山口達典